雅号・大観


東京へと戻ったあとは、母校である東京美術学校で図案科の助教授を務めることになった。 この在職中に『無我』という作品を創作し、そこで初めて雅号である大観を使った。
 
この『無我』という作品は平原に着物を着た少年が立っている絵だが、 大観の代表作のひとつであり、非常に有名な作品である。
現在は東京国立博物館に納められている。
 
助教授に就任した翌年の1897年に横山大観は妻・滝沢文子と結婚をする。
 
公私ともに順調とも思えた翌年の1898年。
当時東京美術学校の校長であった岡倉天心が、福地俊一という人物の逆恨みを買ってしまうことで、 新聞社などに怪文書が出回るという事件が起こり、 それによって岡倉天心は校長の座を辞任せざるを得ない状況となってしまった。
しかし日本美術学校の中心人物であり、人望とカリスマ性を備えた岡倉天心の辞職は、 日本美術学校の教員の連名辞職という形を引き起こした。
「岡倉先生が辞めるなら」と当初は34名もの辞職願いが出され、 学校の危機に慌てた文部省がとりなしたが、結局17名の教職員が辞めてしまった。
 
岡倉天心は日本美術学校の主要な人物が自分についてきてくれたことで、 もっと自由な芸術のための場所を作ろうということで日本美術院を創設した。
横山大観もこれに従って、私財を投入して設立運営に奔走した。

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